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☆京都のお天気:時々陰暖気甚 (『嵯峨実愛日記』) >第一次幕長戦へ ■将軍進発・征長総督問題 【京】元治1年9月7日、上京した征長副将・越前藩主松平茂昭は、一橋慶喜・稲葉老中に対し、速やかな征長総督確定・将軍徳家茂上洛を説きました。(※1) 慶喜は、茂昭に同意したものの、江戸とは「行違」が多く歎息するないともらしました。また、副将による征長指揮についても可能性を否定しました。(※2) 〇茂昭・慶喜・正邦の会見内容のてきとう訳
(※1)茂昭は前6日に着京。 征長総督は未だ決まっていませんが、既に諸藩に追討の命が発されたており、副将までが出陣を遅らせては諸軍の人心に影響するとの判断から、予定通り上京し、上京の上は、一橋慶喜や在京老中に「厳談」することに決し、8月28日に福井を発ちました。(こちら) (※2)8月30日、総督決定が遅れるなら副将以下出陣するようにせよとの朝命が出ていました。慶喜は、、9月1日、朝廷に対し、取り計らいは江戸に任せるようにとの陳情書を出しており、備前藩資料によると「副将之指揮を諸藩決而請間敷、又越前にも御請仕間敷」と進言したともいいます(こちら)。 参考:『続再夢紀事』三p286-287、309(2018/5/16) 【京】同日、参内した一橋慶喜は、将軍上洛は天狗・諸生の乱の鎮静後、時期は来春以降になるのではないかとの推測を述べました。 山階宮が翌8日に越前藩士中根雪江に語ったところによると、将軍上洛について尋ねられたと慶喜は、<関東では浮浪が嘯集して、当初は800人程だったのが2000人くらいとなり、幕府の討手が敗走しただけではなく、水戸藩内でも党争が起こって大騒動となっており、この一時が鎮静するまで出発は難しいだろう。当地の推測では来春にならなくては出発できないのではないか>と述べたそうです。 <ヒロ> 当地の推測というあたりにも、正確な情報が幕府から入ってこない状況がうかがわれますよね。 参考:「征長出陣紀(枢密備忘)」『稿本』(綱要DB 9月7日(5))(2018/5/16) 【尾】同日、征長総督を命じられた徳川慶勝は、病を押して上洛し、将軍進発を待って進止を請うことを幕府に上申しました。(『綱要』) <ヒロ> とりあえず上京することだけは決めたようです。 ■在京薩摩藩の動き・知りえた情報 【京】同日、在京の西郷吉之助(隆盛)は、国許の大久保一蔵(利通)に対し、「狡猾」な長州への厳しい処分が必要なこと、一橋慶喜が江戸で嫌疑され「離れもの」となっているため、着京した征長副将・越前藩主松平茂昭を会して幕府に建議すること、総督が決定しない場合は副将による征長を周旋することを知らせ、追って連絡あるまでの征長出陣見合せを要請しました。 〇西郷の書簡のポイントてきとう要約(()内は管理人)
(※2)西郷は、茂昭の着京後、すぐに越前藩士村田巳三郎等へ問い合わせた(9月16日付西郷書簡) (※3)こちら <ヒロ> ・小松帯刀は、禁門の変以降、一橋慶喜や朝廷との距離が縮まり、存在感を示していたようですが、帯刀の帰国後、薩摩藩は、西郷を含め、影響力を行使する伝手を失ったようです。また、特にこれといった戦略もないことがうかがえます。越前藩とはつながりがあるので、茂昭の上京を好機会ととらえていますが、(慶喜も茂昭自身もありえないと考えている)征長副将出陣を周旋するつもりだというあたりは、センスがちょっと(もしかすると、征長副将以下出陣の朝命の背後に薩摩藩(近衛忠房経由)がいたのだったりして?)。 ・西郷の書状は、これまでのものもそうですが、常に自分をアピールし、薩摩藩の手柄を求めている印象が際立つ気がします。本心からそうだったのか、それとも、この間まで大島に流されていたことが響いているので自己保身でそういうになっているんでしょうか。(大久保から久光に情報が伝わることはわかりきっているので)。 参考:『西郷隆盛全集』一p382-(2018/5/16) 関連:テーマ別■第一次幕長戦(元治1) ■一橋慶喜の評判/嫌疑 ■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ >四国代表と幕府の協議(下関償金、他) 【江】元治1年9月7日、英・仏・米・蘭の四ヵ国代表は、老中牧野忠恭・水野忠精・諏訪忠誠等と会して、下関開港について30日以内に決答することを求めました。さらに、もし30日以内に回答がない、あるいは朝廷が拒否した場合は、四ヵ国代表が大坂に軍艦で乗り入れ、幕府代表も船で摂海に向かうことを提案しました。(摂海乗り入れは老中たちは言葉を尽くして反対) 関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1四国艦隊下関襲来 |