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元治元年9月7日(1864年10月7日)

【京】征長副将松平茂昭、禁裏守衛総督一橋慶喜・老中稲葉正邦に対し
征長総督確定・将軍徳川家茂上洛の緊急なるを説く。
【尾】征長総督徳川慶勝、病を押して上京し、将軍進発を待って進止を請うことを幕府に上申
【京】在京西郷吉之助、国許の大久保一蔵に京都の近情・江戸の内情を報知

☆京都のお天気:時々陰暖気甚 (『嵯峨実愛日記』)

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■将軍進発・征長総督問題
【京】元治1年9月7日、上京した征長副将・越前藩主松平茂昭は、一橋慶喜・稲葉老中に対し、速やかな征長総督確定・将軍徳家茂上洛を説きました。(※1)

慶喜は、茂昭に同意したものの、江戸とは「行違」が多く歎息するないともらしました。また、副将による征長指揮についても可能性を否定しました。(※2)

〇茂昭・慶喜・正邦の会見内容のてきとう訳
茂昭 今度、副将の命を蒙り、かつ8月中に出陣せよとのことなので取り合えず上京したが、総督が命を請けたかどうか未だ不分明だとか。これでは、出陣予定の各藩の士気は必ず幾分か阻喪するに違いない。この上は、一日も早く総督を決定することを希望する。
慶喜 自分も同様に心配しており、既に尾前公へ書面をも以て速やかに請けるよう申し遣わしたが、未だ返答なく、甚だ当惑している。
茂昭 それだけではなく、今般の一挙は、大樹公上洛がなくては成功は到底覚束ない。この件は如何?
慶喜 そのことも同意であり、最前から度々進言し、その後、進発するとまでは発令されたが、未だ御出発の期日は定められず、「何事も此地と関東とは行違の事のみ多く、実に歎息の外なし」である。
正邦 総督を定めることは急務である。一橋殿と同じく当惑している。
茂昭 時宜によっては副将を以て征長を指揮することになるまいか。
慶喜 そのような事は到底なしがたい。

(※1)茂昭は前6日に着京。 征長総督は未だ決まっていませんが、既に諸藩に追討の命が発されたており、副将までが出陣を遅らせては諸軍の人心に影響するとの判断から、予定通り上京し、上京の上は、一橋慶喜や在京老中に「厳談」することに決し、8月28日に福井を発ちました。(こちら)
(※2)8月30日、総督決定が遅れるなら副将以下出陣するようにせよとの朝命が出ていました。慶喜は、、9月1日、朝廷に対し、取り計らいは江戸に任せるようにとの陳情書を出しており、備前藩資料によると「副将之指揮を諸藩決而請間敷、又越前にも御請仕間敷」と進言したともいいます(こちら)。

参考:『続再夢紀事』三p286-287、309(2018/5/16)

【京】同日、参内した一橋慶喜は、将軍上洛は天狗・諸生の乱の鎮静後、時期は来春以降になるのではないかとの推測を述べました。

山階宮が翌8日に越前藩士中根雪江に語ったところによると、将軍上洛について尋ねられたと慶喜は、<関東では浮浪が嘯集して、当初は800人程だったのが2000人くらいとなり、幕府の討手が敗走しただけではなく、水戸藩内でも党争が起こって大騒動となっており、この一時が鎮静するまで出発は難しいだろう。当地の推測では来春にならなくては出発できないのではないか>と述べたそうです。

<ヒロ>
当地の推測というあたりにも、正確な情報が幕府から入ってこない状況がうかがわれますよね。

参考:「征長出陣紀(枢密備忘)」『稿本』(綱要DB 9月7日(5))(2018/5/16)

【尾】同日、征長総督を命じられた徳川慶勝は、病を押して上洛し、将軍進発を待って進止を請うことを幕府に上申しました。(『綱要』)

<ヒロ>
とりあえず上京することだけは決めたようです。

■在京薩摩藩の動き・知りえた情報
【京】同日、在京の西郷吉之助(隆盛)は、国許の大久保一蔵(利通)に対し、「狡猾」な長州への厳しい処分が必要なこと、一橋慶喜が江戸で嫌疑され「離れもの」となっているため、着京した征長副将・越前藩主松平茂昭を会して幕府に建議すること、総督が決定しない場合は副将による征長を周旋することを知らせ、追って連絡あるまでの征長出陣見合せを要請しました。

〇西郷の書簡のポイントてきとう要約(()内は管理人)
御建言の一書(※1)を受け取ったが、もはや機会を逸してしまった。長州襲来の異人も引き払い、和議も調ったと聞くし、征討については「余程相運ばず」、頻りに働きかけている途中だが、今やすべて「因循の媒(なかだち)」なので、実に恐れ入り存じ奉るが、今回の御建言は、まず御見合せになった方がよい。今現在でさえ、薩摩藩が繰り出さないのは別に一策があるからだと頻りに非難されている訳で、ごもっともの御議論ではあるが、異人は引き払い、征討は遅引し、機会を逸したので、やむを得ず(建言提出を)控えておく。大夫(=小松帯刀)がご帰国になり、詳細が分かれば、自然、御安心の事と存じ奉る。
長州征討は一日も延引する理由はなく、速やかに着手していれば「異人の一挙」(=連合艦隊の下関攻撃計画)も空しいものになったのに、「異難」(=下関戦争)が先立ち、残念である。長州では、此の両度(=禁門の変と下関戦争の敗北)に余程勢いも挫けたようで、段々嘆訴しているが、「畢竟、狡猾の長人」なので、どんな企みかも計り難い。(禁門の変で)益田等三家老を打ち洩らしてしまったため、彼等は現在(支藩徳山藩の)お預かりの身とは申せ、これにかこつけ、暫く動静を窺っている可能性もある。是非とも(長州へ)兵力を以て迫り、その上で降伏を乞えばわずかな領地を与え、東国辺へ国替を命じられねば、将来的に「御国」の災害を成し、「御手」の届きかねることになるやも計り難い。
(ところが)関東では「戊午前後奸吏(=安政の大獄時の幕府役人)悉く官路に塞」っており、「久世・安藤(=久世広周・安藤信正。安政の大獄時の老中)の両奸」の出仕がないだけであると、一橋(慶喜)より朝廷へ申し上げたそうだ。この度の(征長)延引の理由は「一橋を挫き付くるの策」で、関東では(慶喜を)頻りに忌み嫌っているという。それゆえ、関東では征討をせぬ方向の議論も起っていると、一橋より申し立てたそうだ。
越前(=征長副将・越前藩主松平茂昭)は昨日着京したが、非常の(=出陣の)御備えではなく、人数等もわずかだという話で(※2)、「頼少」ないことである。尾老公(=前尾張藩主徳川慶勝)は、所労で(総督を)御請けなく、会・桑が使者を送り、尾張候建言の書面を以て、関東へ一橋総督を懇請する都合とし、両藩の使者が尾張の使者を連れて関東へ下ったそうだ(※3)。これでも、必ず一橋を「差し免し候儀(=総督任命)」は覚束ず、この件が成就しない場合は、副将が総督を務めて追討をするよう周旋仕るので、承知してほしい(※4)。まず副将を備えた方が何かと建議もしやすい。「当日の処にては一橋は全く離れもの」になり、稲葉閣老は、何を申しても返答できないとの事で、「責め様」がなかったところ、まず「責め口」ができたというものである。(長州)攻撃の義は、追って申し上げるので、それまでは(久光父子が攻撃を)御見合せになるよう計らってほしい。
そのうちに必ず外国船が摂海に現れるかもしれず、先月26日には11隻が、4日には1隻が来て(※5)、すぐに引き取ったが、また来るのは間違いない。
(※1)外国艦隊に敗北という長州藩の外難に鑑み、同胞として征長を猶予すべきという内容の薩摩藩の建言書案(大久保が起草)が『大久保利通文書』一(p219-220)に収録されている。
(※2)西郷は、茂昭の着京後、すぐに越前藩士村田巳三郎等へ問い合わせた(9月16日付西郷書簡)
(※3)こちら

<ヒロ>
・小松帯刀は、禁門の変以降、一橋慶喜や朝廷との距離が縮まり、存在感を示していたようですが、帯刀の帰国後、薩摩藩は、西郷を含め、影響力を行使する伝手を失ったようです。また、特にこれといった戦略もないことがうかがえます。越前藩とはつながりがあるので、茂昭の上京を好機会ととらえていますが、(慶喜も茂昭自身もありえないと考えている)征長副将出陣を周旋するつもりだというあたりは、センスがちょっと(もしかすると、征長副将以下出陣の朝命の背後に薩摩藩(近衛忠房経由)がいたのだったりして?)。
・西郷の書状は、これまでのものもそうですが、常に自分をアピールし、薩摩藩の手柄を求めている印象が際立つ気がします。本心からそうだったのか、それとも、この間まで大島に流されていたことが響いているので自己保身でそういうになっているんでしょうか。(大久保から久光に情報が伝わることはわかりきっているので)。

参考:『西郷隆盛全集』一p382-(2018/5/16)
関連:テーマ別■第一次幕長戦(元治1) ■一橋慶喜の評判/嫌疑 ■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

>四国代表と幕府の協議(下関償金、他)
【江】元治1年9月7日、英・仏・米・蘭の四ヵ国代表は、老中牧野忠恭・水野忠精・諏訪忠誠等と会して、下関開港について30日以内に決答することを求めました。さらに、もし30日以内に回答がない、あるいは朝廷が拒否した場合は、四ヵ国代表が大坂に軍艦で乗り入れ、幕府代表も船で摂海に向かうことを提案しました(摂海乗り入れは老中たちは言葉を尽くして反対)

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